謎の人・趙雲
最近、今までの過剰評価の反動か、正史では趙雲はただの雑魚という主張が増えているように思えるが、決してそんなことはない。ただし名将というには厳しいものがある。
何が厄介かというと、裴松之による趙雲の注釈に「趙雲別伝」という書物が使われているが、これの信憑性が低いことだ。
原因は、劉備の嫁さんが呉に帰ろうとした時に、劉禅を奪還したという話。
他の正史の記述と照らし合わせると、これはどうも嘘らしい。
そのため別伝そのものが信用できない、という理屈だ。多分。
空城の計も胡散臭さ満点だ。
別伝抜きにすると、趙雲の事績は
・早い時期に劉備の部下になった
・長坂の戦いで劉禅と甘夫人を救出した
・北伐で斜谷道の別働隊を率いた(敗北)
ぐらいになる。
かなりさっぱりするが、少なくともそこらのモブ将とはレベルが違う。特に劉禅救出は演義でなくとも目立つ功績であろう。
別伝には、公孫瓚配下から一度野に下り、後に劉備に仕えたと書いてある。
しかし別伝を無視すると、公孫瓚配下から直接劉備の部下となり、以来ずっと仕えていた、と読むのが自然だ。
もしそうなら、趙雲は35年ほど劉備に仕えている。苦しい時期からの長きに渡る奉公だけで評価に値する。
この説が間違っていたとしても、やはり30年仕えているので十分だろう。
長坂の活躍は文句ない。演義と違って夫人をも救っているのだからなおさらだ。
益州援軍の際は、一応は張飛と並列して使われている。ボンクラではない一つの証左だと思う。
斜谷道では敗北し、降格までされている。しかしこれは非難されるべきでない。
そもそもの役目は陽動であり、曹真の本隊を少ない手勢で相手しなければならなかった。
おまけに本隊はどこぞの馬の骨が失態をやらかして総退却した。
この状況で負けるなという方が無理だ。良く守備して犠牲を抑えたとあるのだから、むしろ誉めてよい。
この敗戦で一方の大将である諸葛亮は降格している。名目上は別方面の大将である趙雲も、処罰されなければ釣り合わない。
趙雲は鎮軍将軍となった。これは諸葛亮の右将軍の一つ下だ。諸葛亮に合わせたと考えれば自然ではないだろうか。
とりあえずここまでで、趙雲はそれなりの良将であると主張した(つもり)。
ところで。
劉禅即位時、趙雲の爵位が雑号将軍から征南将軍になった(課長がいきなり常務になったようなイメージ)。
さらに趙雲には諡号がある。しかも二字(私の記憶が正しければ、二字の諡は格が高い)。
趙雲が良将止まりであるなら、この扱いが説明できない。
このギャップは趙雲の評価が割れる一因でもある。
完全な妄想だが、これらの原因は「劉禅によるゴリ押し」ではないだろうか?
前述の通り劉禅は趙雲に命を救われているので、恩義を感じている、という仮説である。
征南将軍になったのは劉禅が即位した時のことであり、明らかに彼の意向が影響している。
その後なぜか鎮東将軍に降格されているが、先の昇格に無理がありすぎたために調整したのかもしれない(このとき魏延は鎮北将軍であり、この降格によってやっと同格となった)。
260年、今までの功労者への一斉追諡キャンペーンがあった。
翌年、趙雲だけがなぜか遅れて追諡された。
今まで別伝を無視しておきながら別伝からの引用になるが、趙雲への追諡を言いだしたのは劉禅その人である。
また、裴松之の引用として別伝が存在する人物は、お偉方の文官や、華佗や管輅など怪しい系の人物、もしくは皇族である。武官と言える人物は趙雲のみであり、明らかに異質だ。
皇帝劉禅が働きかけて別伝を編纂させ、世に出したと考えれば、筋が通るのではないか。
念を押しておくが、これは私の妄想でしかない。
しかし荒唐無稽とも思わない。
真実は永久に明らかになることはないが、一つの仮説としていかかがだろうか?