しない善よりする偽善
ネットでこんなブログ記事を見つけた
しない善よりする偽善,という言葉は詭弁だ.善行は善行として評価されるべきであり,この言葉は真の偽善者が工作によって広めたものだ・・・ということらしい.
「しない」「する」の前に省略されている言葉を補えば,この言葉の詭弁が浮き彫りになるという.
使われている例をそのまま引用させて頂く.
手話歌が聴覚障害者をのけものにするのかどうか私は知らないが,募金詐欺の例はわかりやすい.
正直言うと,ちょっと引っかかりはしたが,最初はこの意見に騙された.私もまたこの言葉は嫌いだと思っていたから.
しかし,この記事の末尾で,自分の意見と異なる意見を提示した人を,「回答を誘導しようとする工作員」だと決めつけているのを見て,この筆者の思考はイカれていると気づいた(私も十二分にイカれているので,批判等あればコメントなりなんなりして下さい).そして読み返してみると,詭弁じゃないかと.
冒頭にも似たことを書いたが,彼の意見は
「本当は、人のために良いことをしていれば、それは「善行」なのだ」
というものだった.
つまりしない善よりする偽善という言葉の前提として,そこで行われている行動はあくまで「善」でなければならない.
募金詐欺は紛れも無い悪なのであるから,これをこの言葉に当てはめることはできない.
直接向こうのブログにコメントしろよ,こんなとこでコソコソ批判しやがって,と思われるかもしれないが,かの記事は1年以上前のもので,ブログ自体が10カ月の間更新されていないこと,コメントが承認制であること,そして前述の通り筆者の思考に危険な香りがすることから,やめた.
それにどうせここで批判したって誰も読んでない.悲しいが仕方ない.
しない善よりする偽善という言葉が適切な状況例を,ありきたりなものだが,思考整理のために記して終わりとしよう.
災害があって募金が呼びかけられている(募金詐欺ではなく).
貧しいAさんは,助けてあげたいと考えているが,どうしても募金する余力がない.
悪徳成金のBさんは,他人なんてどうでもいいと考えているが,世間の批判にさらされたので,仕方なく相応の大金を出した.
被災者にとっては,自分達を心配してくれるAさんではなく,自分達を見下すBさんの行為が直接的な利益になる.
Bさんの心に善はないが,行為は善行そのものだ.
心が伴わない善行のことを「偽善」と呼んでいるのだろう.