namuiru's diary

自分の思考を整理しておくためのブログ。普通からずれていることは理解している。たまには良い事を書いているかもしれない。

カチカチ山

太宰治の「お伽草子」の中の物語一つ、『カチカチ山』。

これが非常に面白かった。

全文が

青空文庫http://www.aozora.gr.jp/

というサイトで読めるのだが、言葉づかいが少し古くて読みづらいので

『カチカチ山』の前口上の部分を平易な言葉に変えたものを記載する。あまり変わらないが。

これを読んで、興味が湧いたらぜひ全文を読んでみて欲しい。

長いがご容赦。それだけの価値がある。

 

カチカチ山

 

 カチカチ山の物語における兎は少女、そしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋している醜男。これはもう疑いようのない厳然たる事実のように私には思われる。これは甲州、富士五湖の一つの河口湖畔、いまの船津の裏山あたりで起きた事件だという。甲州の人情は荒っぽい。そのせいか、この物語も、他のおとぎ話に比べて、いくぶん荒っぽくできている。第一、物語の発端からして酷だ。婆汁なんてのはひどい。ギャグにもシャレにもなってやしない。狸も、つまらない悪戯をしたものである。縁の下に婆さんの骨が散らばっていたなんて段に至ると、まさに陰惨の極みであって、いわゆる児童向けの本としては、遺憾ながら発売禁止の憂き目に遭わざるを得ないところだろう。現在発行されているカチカチ山の絵本は、それゆえ、狸が婆さんに怪我をさせて逃げたなんて具合に、賢明にごまかしているようである。それはまあ、発売禁止も避けられるし、大いによろしいことであろうが、しかし、たったそれだけの悪戯に対する懲罰としてはどうも、兎の仕打ちは陰湿すぎる。一撃のもとに倒すというような颯爽たる仇討ちではない。半殺しにして、なぶって、なぶって、そうして最後は泥舟でぶくぶくである。その手段は、最初から最後まで詭計である。これは日本の武士道の作法ではない。しかし、狸が婆汁などというあくどい詐術を行ったのならば、その仕返しとしてそれくらいの陰湿ないたぶりを受けるのは致し方のないとことであると合点のいかないこともないが、子供心に与える影響ならびに発売禁止のおそれを考慮して、狸が単に婆さんに怪我をさせて逃げた罰として兎からあのような数々の恥辱と苦痛と、やがてみっともない溺死とを与えられるのは、いささか不当のように思われる。もともとこの狸は、何の罪もなく、山でのんびり遊んでいたのを、爺さんに捕えられ、そして狸汁にされるという絶望的な運命に到達し、それでも何とかして一条の血路を切り開きたく、もがき苦しみ、窮余の策として婆さんを欺き、九死に一生を得たのである。婆汁なんかをたくらんだのは大いに悪いが、しかしこのごろの絵本のように、逃げるついでに婆さんを引っ掻いて怪我させたくらいのことは、狸もその時は必死の努力で、いわば正当防衛のために無我夢中であがいて、意識せずに怪我を与えたのかもしれないし、それはそんなに憎むべき罪でもないように思われる。私の5歳の娘は、顔も父に似て非常にまずいが、頭脳もまた父に似て、へんなところがあるようだ。私が防空壕の中で、このカチカチ山の絵本を読んでやったら、

「狸さん、かわいそうね。」

と意外なことを口走った。もっとも、この娘の「かわいそう」は、このごろ彼女の一つ覚えで、何を見ても「かわいそう」を連発し、子供に甘い母親に褒められたいという下心が露骨に見え透いているので、格別おどろくにはあたらない。あるいは、この子は、父に連れられて近所の井の頭動物園に行った時、檻の中をたえずチョコチョコ歩き回っている狸の群れを眺め、愛すべき動物であると思いこみ、それゆえこのカチカチ山の物語においても、理由がどうとかは関係なく、狸に贔屓していたのかもしれない。いずれにしても、わが家の小さい同乗者の言葉は、あまり当てにならない。思想の根拠が薄弱である。同情の根拠が朦朧としている。どだい何も問題にする価値がない。しかし私は、その娘の無責任極まる放言を聞いて、ある暗示を与えられた。この子は、何も知らずにただ、この頃覚えた言葉を出鱈目に呟いただけのことであるが、しかし、父はその言葉によって、なるほど、これでは少し兎の仕打ちがひどすぎる。こんな小さい子供たちなら、まあなんとか言ってごまかせるけれども、もっと大きい子供で、武士道とか正々堂々の観念を教育されている人には、この兎の懲罰はいわゆる「やり方が汚い」と思われはしないか、これは問題だ、と愚かな父は眉をひそめたというわけである。

 このごろの絵本のように、狸が婆さんに単なる引っ掻き傷を与えたくらいで、このように兎に意地悪くもてあそばれ、背中は焼かれ、その焼かれた箇所に唐辛子を塗られ、あげくのはてには泥舟に乗せられて殺されるという悲惨な運命に至るという筋書きでは、国民学校に通っているほどの子供ならば、すぐに不審を抱くだろうことはもちろん、よしんば狸が不埒な婆汁などを試みたとしても、なぜ正々堂々と名乗りをあげて彼に裁きの一太刀を加えなかったのか。兎が非力であるから、などはこの場合、弁解にならない。仇討とはすべからく正々堂々たるべきである。神は正義に味方する。かなわぬまでも、天誅!、と一声叫んで真正面から躍りかかって行くべきである。あまりにも腕前の差がひどかったならば、その時には臥薪嘗胆、鞍馬山にでもはいって一心に剣術の修行をすることだ。昔から日本の偉い人たちは、たいていそれをやっている。いかなる事情があろうと、詭計を用いて、しかもなぶり殺しにするなどという仇討ち物語は、日本にいまだ無いようだ。それをこのカチカチ山だけは、その仇討ちの仕方がよろしくない。どだい男らしくないじゃないか、と子供でも、大人でも、いやしくも正義にあこがれている人間ならば、誰でもこれについてはいささか不快の情を覚えるのではあるまいか。

 安心したまえ。私もそれについて考えた。そうして、兎のやり方が男らしくないのはそれは当然ということがわかった。この兎は男じゃないんだ。それは、確かだ。この兎は十六歳の乙女だ。まだ何も色気はないが、しかし、美人だ。そうして、人間のうちでもっとも残酷なのは、得てして、このたちの女性である。ギリシャ神話には美しい女神がたくさん出てくるが、その中でもヴィーナスを除いては、アルテミスという処女神が最も魅力ある女神とされているようだ。ご承知のように、アルテミスは月の女神で、額には青白い三日月が輝き、そうしてすばしっこくて剛情で、ひとくちで言えばアポロンをそのまま女にしたような神である。そして下界のおそろしい猛獣は全部この女神の家来である。けれども、その姿形は決して荒々しくてごつい大女ではない。むしろ小柄で、ほっそりとして、手足も華奢で可愛く、ぞっとするほど妖しく美しい顔をしているが、しかしヴィーナスのような「女らしさ」が無く、乳房も小さい。気に入らない者には平気で残酷なことをする。自分の水浴びしているところを覗き見した男に、さっと水をぶっかけて鹿にしてしまったことさえある。水浴びの姿をちらっと見ただけでも、そんなに怒るのである。手なんか握られたら、どんなにひどい仕返しをするかわからない。こんな女に惚れたら、男は惨憺たる大恥辱を受けるに決まっている。けれども、男は、それも愚鈍な男ほど、こんな危険な女性に惚れ込みやすいものである。そしてその結果は、たいてい決まっているのである。

 疑うものは、この気の毒な狸を見るがよい。狸は、そのようなアルテミス型の兎の少女に、かねてひそかに思慕の情を寄せていたのだ。兎が、このアルテミス型の少女だったと規定すると、あの狸が婆汁か引っ掻き傷かいずれの罪を犯した場合でも、その懲罰が、変に意地悪く、そして「男らしく」ないのが当然だと、ため息と共に肯定されなければならないわけである。しかも、この狸たるや、アルテミス型の少女に惚れる男のご多分にもれず、狸仲間でも風采あがらず、むやみに太っていて、愚鈍で大飯喰らいの無粋な奴だったのだから、その悲惨な末路は推し量るに余りある。

 

以上

ここから物語が始まる。私のようなダメ男は、腹立たしくも共感せざるを得なかった。

 

 

余談であるが、狸の年齢は三十七。このお伽草子が発表されたとき、太宰治は数え三十七である。自身を投影したのだろうか?と憶測してしまう。

だが、狸にせよ太宰にせよ、女と接する態度は常人の域を逸しているが、そのベクトルは正反対と言っても良いくらいに異なっているようにしか見えない。

しかしそれでも、引っかかる。