遺骨収容について
身元判明、印鑑が手掛かり=パプアで戦死の旧日本兵遺骨―71年ぶり遺族に・高知
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131207-00000082-jij-soci
人によっては不快に思う内容かもしれない。
あくまで私個人の意見だし、私自身この意見は疑問であるが、書いてみる。
もう、遺骨の収容なんてせずに、密かに処分でもした方が幸せになれるのではないかと思う。
仏様の霊魂はかわいそうだが、生きている遺族が知りさえしなければ、まさに知ったこっちゃないことである。
上の例では、71年前に亡くなった方の遺骨が、現在71歳の、甥の妻に当たる人に届けられたとある。
自分がやっと生まれているかどうかの頃に亡くなった、夫のおじさんなんて、正直遠すぎる。
戸籍上血縁があるだけの、他人だ。
もちろん夫のおじではなく、自分の親の遺骨が見つかっていない人もいるだろう。
親ともなれば、愛着は強い。
しかし、拉致問題のように生きて会える可能性があるわけでもない。
親が戦地に行っていなくても、もう亡くなっている頃合。
親の死を受け入れなければならないのは、みな同じのはずだ。
むしろ、1945年から少なくとも68年間、親に会うことなく生きてきた人達の方が、まだ受け入れ易いとさえ思える。
そもそも、多大な労力をかけても発見できる遺骨は一部でしかない。
そして、身元が判明するのはさらにその中のごく一部でしかない。
遺骨捜索が行われている限り期待してしまうのが人情というものだが、絶望的な確率にすがらせ続けるのは、あまりに酷ではないか。