蜀漢正統論の始祖?
西晋の張輔という人が、著書において論じていた内容が、伝にて紹介されている。
その中に
というものがあった。
ただし、長いから詳細は載せない、と書かれている。勿体ないことをしてくれたもんだ。
張輔の生年は不明だが、従父兄の劉喬なる人物が249年の生まれらしいので、その少し後だと考えると250年代だろうか。
辛うじてだが、魏も蜀も残っている頃だ。
成長した頃には晋代となっており、こういう場合、先代の魏は貶められるのが普通だとか聞いたが、仮にも魏人として生まれた者が、曹操を貶めるに留まらず劉備・諸葛亮を称揚するのは、もう立派な蜀贔屓と言えるのではなかろうか。
(もしかすると晋成立後の生まれという可能性もあるが…)
推測でしかないが、これは陳寿の書いた蜀書を読んだ結果だろう。
蜀書において、諸葛亮は自らを管仲・楽毅になぞらえていたとある。
しかし諸葛亮伝における陳寿の評は、諸葛亮は管仲に匹敵する政治家だったが、軍略は得意ではなかったのではないか、というものだった。
張輔はこの意見に反駁して、上のような著述をしたのであろう。
劉備を曹操の上に位置付けるのは、魏が正統ではなく蜀が正統だと主張するようなものだし
諸葛亮を楽毅に優ると評するのは、それと逆のことを書いた陳寿を否定するようなものだ。
時代が下ると蜀漢正統論が流行し、陳寿は曲筆して魏を正統として史家だとして非難を浴びることになるが、このような風潮が作られた発端は張輔だ、というのは考えすぎだろうか。