李毅と李秀
なんとなく三国志時代の(というか西晋時代の)李毅という人物のことをネットで見つけた.
そのサイトは中国の綿陽市の公式サイトだった.
李毅は綿陽市に該当する広漢の生まれである.
地元の人はマイナーであれなんであれ誇りたいという気持ちは万国共通のようだ.
折角なのでここでその記述を訳します.
といっても中国語も漢文も全然分からないので,超適当かつ不正確ですが.
大筋が合っていればいいじゃないかということで.
訳元
http://www.my.gov.cn/MYGOV/150660593680908288/20061124/136969.html
李毅,字は允剛.西晋の時代,広漢郡三台の生まれ.
幼い時は遊んでばかりいたが,二十数歳で郡の貴族向け学校で勉強を始めた.
太守の王濬が視察に来た.校長に問うた.
「優秀な人材は何百人いるのかね」
校長が答える.
「百人くらいです」
王濬はキレた.
「学生は八百人いるのに,有能な奴は百人だけなんて少ないじゃないか」
李毅が大胆にも答えた.
「孔子には弟子が三千人いましたが,賢人は七十二人だけです.だから少ないなんてことはないでしょ?」
王濬は驚いて詫びた.李毅の機智を誉め,主簿に任命した.
泰始十年(274年),益州に将軍張弘が,刺史皇甫晏を謀反人だとして殺した.
李毅はそれを知って,王濬を説得して言った.
「皇甫晏は平民から出世しました.謀反するはずありません.広漢郡は益州郡に近いですから,益州で禍があれば,広漢郡も平穏ではいられません.張弘はしょぼい人間ですから,民心を得ていません.すぐに征伐して下さい」
王濬は朝廷にその旨上奏するから少し待てと言う.しかし李毅は勧める.
「役人なんだから,国家の利益になりゃいいんですよ.詔勅なんて無くてもやるべきです.しかも張弘は上司を殺して反乱してるんですから,猶予なんてないですよ」
王濬はそれに従い,軍を発して反乱を鎮め,張弘を殺した.王濬は功績を表彰され益州刺史に昇進し,李毅は州の主簿・別駕となった.
王濬が呉を滅ぼした後,李毅は関内侯となり,すぐに雲南太守になった.
王濬が病死すると,南夷校尉に任命された.
光熙元年(306年),犍為で反乱が起きた.李毅は寧州刺史・竜驤将軍(王濬も経験した)・成都県侯とされ,鎮圧を命ぜられた.
兵力に差があったので,反乱軍に城を包囲された.
当時中央は八王の乱の最中で,蜀は李雄が晋から独立して成漢を建国していたので,援軍は得られなかった.
そのまま死去した.
懐帝から忠節を称えられ,少府を追贈され,威侯と諡された.
訳終
追記
この話には続きがありました.
以下方々で得た情報を整理して記載.
ソースは百度百科等.
李毅の娘は李秀,字を淑賢と言う.
父の面影があり,聡明であった.
李毅が死ぬと,周囲の者はこぞって李秀を州の主に就けようとした.
当時まだ15歳であった李秀は受諾し,軍事に勤しみ,よく統率した.
城内は食糧が尽き,鼠や雑草を食するようになっても士気は下がらず
何年もの間頑強に守備し続けた.
ある時,包囲する敵に気の緩みがあると見た李秀は出撃
見事敵を打ち破り,撃退に成功した.
その後も土地を治め続け,30年余りして死去.
死後,廟が建立され祀られた.
どれだけが史実なのか分かりませんが,漫画の王道ストーリーを地で行ったような良いエピソードですね.
三国時代に武勇伝が残る女性といえば
同じく包囲されても忠義かつ献身的に働いたが、とかく死にたい病の王異とか
武は優れていたらしいが、乳房3尺という訳の分からない特徴を持つ趙嫗とかがいるが
こっちの方がわかりやすいし,親しみが持てる.
なおこの話は中国の道徳の教材としても使われているようです.
冒頭で李毅をマイナーと書いてしまいましたが,もしかすると娘の方は有名なのかも.
面白い父娘を発見できてよかった.
この記事が原因で有名にならないかな,なんて思ったり.