namuiru's diary

自分の思考を整理しておくためのブログ。普通からずれていることは理解している。たまには良い事を書いているかもしれない。

通算が通産と誤変換されていることがとても多いように思う

イチローが日米通算安打数でピート・ローズを抜いたことで盛り上がっている。

それで、日米通算記録で比較することの是非が問題議論されている。

結論から言うと明らかに比較は無価値なのに、なぜか少数派だ。

 

イチローばかり例にしているが、他を見れば手っ取り早い

例えば松井秀喜

2643安打 507本塁打 1649打点 .293

だが、この数字は

デビッド・オルティス (2015年度まで)

2303安打 503本塁打 1641打点 .284

とかなり似ているが、松井とオルティスを同列に見る人間はいないだろう

時代はさかのぼるが、ミッキー・マントル

2415安打 536本塁打 1509打点 .298

にも引けをとらない。

 

もっと言えば、タフィ・ローズアレックス・ラミレスは、数字の大半を日本で記録しているが、通算の数字は素晴らしいが、メジャーの一流打者と比較されることは決してない。

王がルースやボンズの記録を超えていることはよく語られるが、

野村が安打数・本塁打数・打点の全てで、グリフィーJr. やプホルスを超えていることは全く語られない。

 

イチローが素晴らしいのは明らかとはいえ、日本の記録と米国の記録を比較することは不毛極まりない。

歌詞への感情移入

私は、歌詞というものを非常に重視している。

感情移入ができるかどうか、は私にとってとても大切なのだ。

ゆえに、歌詞を重視した曲であれば、論理や世界観を重視したい。

 

それについて、意外な形で世界観を乱している曲があったので、記す。

揚げ足を取るような内容であり、私と同じように感じる人は少ないだろう。

個人攻撃になってしまうが、公開作品であるし

なによりこのブログなんて誰も見ないので、正直に書く。

 

結果発表 | 録れコン2016-島村楽器

この最優秀作品。曰く「歌詞を大切にした曲」

だそうだ。

 

歌詞の内容は、

夢が歌を歌うことである「彼女」と

その歌声を高く評価し、周りに聞かせようと支援する「僕」の話。

至って筋道の通った歌詞である。

 

問題は、この歌そのものを「僕」が歌っていることだ。

歌を聞かせたい「彼女」がいながら、「僕」が歌っている状況というのが、非常に滑稽だ。

違和感に拍車をかけているのが、これがコンテストの投稿作品だということ。

それこそ、歌声は素晴らしいが日の目を見ずに悩んでいる「彼女」こそ、コンテストに出るべきところだ。

それを差し置いて「僕」がコンテストで優勝しているのだから、彼女の心情はいかばかりだろう。

 

歌詞と現実を混同するな、と思うかもしれない。

しかし、感情移入すると、「彼女」の歌を聞きたいと思うし、応援したくもなる。

だからこそ、なぜ私は今「僕」の歌を聞いているのだろう、と違和感に苛まれるのだ。

 

「彼女」によって歌われるアンサーソングが存在していれば、素晴らしいのだが。

ある教師の弁護

世間で不当に、必要以上に批判されている人を弁護する、というネタをよく書く気がするので、こういう区分にした。

 

体調不良の訴え認めず 闘病中生徒に我慢強いる (カナロコ by 神奈川新聞) - Yahoo!ニュース

 

当該生徒の初登校は3月、今回の事例は年度をまたいで4月中旬のことだ。

つまり、当該生徒が学校に来てまだ1カ月だ。4月に至っては、授業開始は通常2週目に入ってからなので、まだ授業は1週間程度しか行われていなかっただろう。

問題とされている教師は当該生徒のクラス担任ではなく、英語の教師ということだったので、もし4月から当該生徒の授業を担当するようになったとすれば、1, 2回程度顔を合わせただけになる。

 

また、中学校はかなり人口の多い地域にあるから、生徒数も多いことが推測される。

生徒が多い学校で、ともすれば2回しか会っていない生徒の顔と状況を正しく認識し、適切な対応を取ることは非常に困難であるはずだ。

実際に教師も調査に対して「生徒と病状のことが頭の中ですぐに結びつかなかった」と答えており、言い訳とはいえ十分納得のできるものだ。

 

教師の対応が不適切であったことは間違いない。

しかし、この件はヤフーに大々的に掲載されており、見出しも「市立中教師 白血病生徒に暴言」となっている。

この扱いは極めて不当であり、誤解を招くものだ。

 

ここからは、おそらく反感を買うであろう内容になるが、この件については教師の他も問題だらけであるように思う。

 

・当該生徒が、普通の返答にもかかわらず、固形物が喉を通らないまでに強いショックを受けること

・それほど辛いにも関わらず、自発的に保健室に行かなかったこと

・どうにも苦しいときは無理にでも休むように親が言い含めなかったこと

・泣きながら授業を受けている生徒を見ても、周囲の生徒が全く援護しなかったこと

 

これらの問題が1つでも無ければ、今回の事態には発展しなかったはずだ。

教師や学校ばかり批判されるが、果たして彼らだけの責任なのだろうか。

 

上っ面

NHK NEWS WEB セピア色の写真が語るもの」

http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2016_0304.html - 2016年3月24日 16:44 - ウェブ魚拓

この記事が、Facebookで紹介されていた。

 

内容を要約すると

・ある人の実母は幼い頃に亡くなり、育ての親は継母だった

・実母の写真等はその妻に託され、本人には秘密にされた

・隠していた写真が東日本大震災のときに出てきたが、妻は改めて隠した

・今年になって妻が死期を悟り、全てを打ち明けた

というものだ。

 

本文の冒頭では

"震災によって、ベールに覆われていた過去と思いがけない形で向き合うことになった家族がいます。"

と述べられており、内容は東日本大震災に関わるものだということが主張されている。

しかしながら、写真はもとから隠していたもので、震災で出てきたにも関わらず、また隠した。

すなわち、震災によって写真の扱いは何も変わっていない。震災はこのストーリーに特別な役割を果たしていないのである。

 

この筆者も、それに気づいているようだ。最後の方では

”このファミリー・ストーリーに出会ったのが、震災の被災地だったことも象徴的に感じられます。”

と書かれている。

本当に震災が絡む話であれば、ストーリーとの出会いが被災地なのは至極当然のことであり、象徴的などという感想は出てこないはずだ。

結局のところ、場所、以外に関連性がないと言い訳しているに過ぎない。

 

被災地を襲った深い喪失感を、私たちの社会はもう記憶の隅へと追いやろうとしていないか。”

などという問題提起をしているが、この記事こそ、関連もないのに震災という言葉で気を引き、真に記憶すべきものを見えにくくしているのだ。

なんという欺瞞か。

 

ちなみに、記事を紹介した人物によれば

上っ面の震災○○年企画は、いらないのです。
こんなに深く、命を見つめられる心なくして、
まして、視聴率やスポンサーの顔色なぞを伺っていては、
良い取材者ではありえないと思います。

だそうだが、上っ面なのはどちらか、明白であろう。

冒涜

菊花紋章つけた「幻創戦艦・大和」が敵として登場で波紋 オンラインゲームのプロデューサーが見解と対応を発表 - ねとらぼ

気持ちは分かるが、それならばだ。

歴史上の偉人を化け物にしたり、性別を変えた挙句に淫らな行為をさせたりするのもやめるべきだろう。

例えば「関羽」で画像検索したら半裸の女が大量に出てくる。
しかも、そのような扱いは複数の作品で行われている。
この現状には憤りを禁じ得ない。

他国の、それも神様として崇められている人物を冒涜し尽くしておいて、自国の非生物を題材にする程度も許容できないのか。

ど忘れ

「はぼ、えー、何だっけ」担当大臣「歯舞」を読めず(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース

不勉強で知らないなら大問題だが、「はぼ」まで読めたのだから、知っているということだ。

単なるど忘れに過ぎない。

その程度も推察できずに批判を展開する連中の、なんと了見と度量の狭きことか。

名は体を表せ

ろくでなし子という名の漫画家がいると、以前ニュースでやっていた。

名前が奇妙だから覚えている。

下品な作品を作り、猥褻物だと見なされ逮捕された。

しかし当人はアートだと言って反発していた。

 

私は思った。

ならば「ろくでなし」とは何のことか、と。

ろくでなし子と名乗って活動するのであれば、自分の行為が批判されることこそ正道であろう。

彼女は、ろくでなしを自称しながら、ろくでなしと言われると反発する愚者だ。

 

その点、最近話題の「ゲスの極み乙女。」のボーカルは、正しい方向に一歩進んだ。

ゲスの極みという、これまた奇怪な名義を使うのであれば、名前に恥じぬ働きをして欲しい。

もちろん被害を受ける方はたまったものではないが。

 

不倫程度ではまだ「極み」に達したとは言えないし、他のメンバーはまだゲスさを見せていない。

このまま、痛い名前の半端者に終わるのか、見事ゲスの極みを示して社会的に抹殺されるのか、期待したいところだ。

 

要するに、安易な芸名を付けるべきでないということだ。

名は自らを示す根本であるからこそ、覚悟を込めて欲しい。