例え話という虚構
「人生とは自転車のようなものだ。 倒れないようにするには走らなければならない。」
これは、かの有名なアインシュタインの言葉である。
多くの人は、この言葉に共感するであろう。
私もまた、走り続けることは大切であると、確かに思うのである。
とはいえ、人生で走るのを止めたなら、果たして倒れるのであろうか。
自転車は、走らなければ倒れるのは間違いない。
しかし人生はどうだろうか、その真偽は今はどうでもよい。
私が言いたいのは、人生を自転車に例えることに、根拠が無いということである。
この言葉の結論に当たる部分は、「人生は走らなければ倒れる」である。
「走らなければ倒れる」をCと置いて一般化しよう。
同様に自転車をa、人生をbと置く。
すると、例え話の論理は
( (a=b)∧(a→C) ) → (b→C)
のようになる。
“∧”は「かつ」、“→”は「ならば」と読み換えて頂ければ良い。
(命題論理では(a=b)という表現は存在しないが、そもそも例えるという演算が存在しないので、イメージが掴みやすいように、このように表現した。)
b→C(人生は走らなければ倒れる)
が正しいと主張するためには
a=b(人生とは自転車のようなものだ)
と
a→C(自転車は走らなければ倒れる)
の両方が正しいことが必要になる。
a→C(自転車は走らなければ倒れる)は物理的に自明である。
しかし一方で、a=b(人生とは自転車のようなものだ)は必ず非自明である。
非自明であるから、例え話になるのである。自明であれば、それは例えではない。
すなわち、(a=b) と (a→C) の両方が正しいとは限らない。
よって、( (a=b)∧(a→C) ) → (b→C) を証明することは、決してできないのである。
結局わかりにくい表現になってしまった気がするが、まとめると、
「AとはBのようなものだ」という例えに根拠は存在し得ないのである。
前提となる例えが信用できない以上、どのような言葉を続けようと、それを正しいと言うことはできない。
例え話に理は存在しない。全て虚構にすぎないのだ。
鵜呑みにせず、まず疑ってかかる。悲しいが、それが正しい接し方なのである。