創世記とごんぎつね
何となく思い出して,小学校の教科書に出てきた「ごんぎつね」を改めて読んだ.
そして,残酷だなあと思いました,まる.
話の流れは以下のような具合である.
狐のごんはいたずら好きで,人間の兵十が捕った魚を逃がした.
その魚は兵十が死にゆく母親に食べさせたいために捕ったものだと察したごんは,償いとして栗を兵十の家にこっそり置くようになった.
あるとき兵十は家に入るごんを見て,いたずらに来たと思い銃で撃った.
栗をくれたのがごんであることに気付いた兵十だったが,既に手遅れであった.
小学生的感想は,ごんがかわいそうとか,いや自業自得だとか,とにもかくにも銃で撃つのはいけないとか,そんな感じになるのだろうか.
この悲劇の原因は,ごんと兵十が理解し合っていなかったことだ.
しかし人間と動物では,心を伝えあう手段がないため,どうしようもない.
と言いたいところだが,そう単純なものではない.
人間は当然,狐であるごんの言葉を聞くことができないし,心もほぼ読み取れない.
しかしながら,ごんは現実に比べて高い知能を持っている.
ごんは人間の感情を理解するだけでなく,人語を解し,人間の習慣にも通じている.
この物語中において,ごんは人間の全てを理解できていると言っていい.
(もっとも,このような人間と動物の関係はごんぎつねに限ったことではなく,多くの物語で見られる.)
もしごんが,現実同様に人間を理解できないならば,いたずらで魚を逃がしても,償いをするという発想に至らず,このような展開にはならなかった.
もしくは,ごんが人語で会話できたならば(その場合,人間はもはやただの野蛮な下等生物となるのだが),自力で誤解を解くことができただろう.
この物語は,ごんに不必要な知能を加え,半端に進化させたことによって生まれた,作られた悲劇だ.
ただストーリーのみに頼るのではなく,悲劇の辻褄が合うように生物を改造するというのは,実に残酷だ.
どうもこれは,キリスト教の創世記に似ている.
いくらそそのかされようと動じない純粋な性格の人間を創造しておけば良いものを,中途半端に甘い性格で生み出されている.
さらにはそそのかし役のヘビまで周到に用意してイブに知識の実を食べさせ,恥や善悪の知能を与えた.
それを理由に人間はエデンを追放されている.
イブは,無理やり知識を与えられ,人間の業を全て背負わされたが,ごんもまた,不相応に高い知能を加えられたことで,悲劇の主人公に仕立て上げられた.
ごんと我々は同じ存在なのかもしれない.
・・・また意味の分からない結論になってしまった.