諺(ことわざ)の使い方
結構な人が感じていると思う.
「善は急げ」なのか「急いては事をし損じる」なのか.
「鳶が鷹を生む」のか「蛙の子は蛙」なのか.
「二度あることは三度ある」のか「三度目の正直」なのか.
諺というのは実にアテにならない.
それもそのはずで,そもそもアテにするものではない.
諺というのは、状況や状態を分かりやすく伝えたり,論理に説得力を持たせたりするために使うものだ.
なのに,ことわざを“根拠”や“理由”として使う例が散見される.
「震災があったらしい.善は急げというから,今から被災地に支援物資を届けよう」
というのは一見正しいように見えるが,物資を調達する手段が無かったり,不足しているものが分からなかったり,目的地への道路が寸断されていれば話にならない.
下手をすると「急いて事をし損じる」ことになりかねない.
物資は用意できる.車も使える.その他の障害もなく,その気になれば直ちに物資を届けられる.
そういう状況がまずあって,なおも行動だけが起こされていない場合に「善は急げ」と言えるのだ.
もっと極端で分かりやすい例でいこう.
いきなり朝青龍と相撲して勝てと言われても,当然負ける.
「三度目の正直だから,次は勝てる」と言われても,勝てないものは勝てない.
事故で妻も子供も失ったとしよう.
「朝の来ない夜はない,いつか悲しみも癒える」と言われても,煩いだけだ.
根拠の伴わない諺なんて,戯言に過ぎない.
赤の他人に殴られるより知り合いに殴られた方が辛い
全盲女生徒「歩くの怖い」不安な心情 1人通学始めたばかり (産経新聞) - Yahoo!ニュース
少女が蹴られた.終わり.
それだけの事件である.
なぜそれが大々的にニュースになっているかというと,被害者が全盲だからである.
目の不自由な人に暴力をふるうなんてひどい,というところだろう.
しかし計画的な犯行ならまだしも,突発的に暴力をふるう行為の非道さに,相手の目が見えるかどうかなど何の関係もないはずだ.
この事件では転倒したあと後から蹴られたようだが,これでは例え目が見えていても,予測も防御も回避もできっこない.
なのに全盲というだけで様々なマスメディアが報じるというのは,非常に気持ち悪い.
記事によれば
>白杖(はくじょう)が前から歩いてきた人物にぶつかり、転倒する感触があった直後、背後から強く蹴られた
ということであり,蹴られた場所は右膝の裏と書いてある.
逆恨みもはなはだしいが,一応動機はある.
蹴られたのは右膝の裏である.顔面を蹴るでも腹を踏みつけるでもなく,暴力としては比較的軽いやり方だ.
全治3週間で,被害の後そのまま学校に行っているので,重症というわけでもない.
暴力事件としても,そこまで悪質ではないように思う.
ぶつかって相手を殴るくらい,夜の繁華街にでも行けば毎日見かける程度のことだ.
ところで,記事にしれっと
>白杖を折られ、心ない言葉をかけられた経験はあるが「暴力は初めて。(以下略)
とか書いてある.
杖を折るというのは,極端に言えば,目を潰すことになる.足への攻撃とは比較にならない.
上で,目が見えるかどうかと暴力は関係ないと書いたが,杖を折るのは目が見えない人に対してのみ行われることで,意図的な嫌がらせである.
こちらの方がよっぽど悪質だと思うのだが,どうなのだろうか.
理解できない変人は必ずいる
「ひるおび!」という昼のワイドショーがある。
名前の通り、平日昼に毎日放送される。
今週はずっと、タイで日本人男性が代理出産をさせた問題を扱っている。
番組からの情報を簡単にまとめると
・詳細はほとんどわかっていないため、捜査中
・現時点では、人身売買などの犯罪性は低い
・現時点では、(ややグレーな部分もあるが)違法性はない
という感じになる。
で、謎が多いから、奇怪な事象だからということで、なんやかんやと色々な人に推測を話させている。
毎日わずかな新情報を紹介し、余計に謎が深まったなどと言ってまた色々しゃべっている。
私の目についたのはこの番組だったが、その他メディアも色々と報じている。
ちょっと検索をかけるだけでたんまり見つかる。
報道をやたら繰り返すというのは私は基本的に好きではないが、それで社会的な認知度を上げ、新しい情報が出やすいようにしたり、事件が風化するのを防げるなどのメリットもあるから、一概に悪とはいえない。
だがこの案件は、日本人が絡んでいるとはいえ外国の話である。
そして犯罪性は低く、近隣住民と現地警察くらいにしか迷惑をかけていない。
当事者は他国へ行ったままのようだが、代理人を通じて連絡は取れる状態にある。
つまり日本人が心配するべきことがほとんどない。
確かに奇怪ではあるが、実に平和な案件である。
ワイドショーであれば、事件性はなくとも興味深い情報であればジャンル問わず報道してくれても良いが、この案件については詳細がまるでわからないし情報も少ないため、ネタとしても低質なはずである。
こんな誰の得にもならない案件を、どうして延々と扱うのか理解に苦しむ。
要するに、別に悪い事をしたわけではない(かもしれない)人のことで、本人の考えも知らずに国を挙げて騒ぐなんて、滑稽だし、失礼だし、その人が不憫でならない。
犯罪だと判明するとか、真相が明らかになるとかすれば、それから好きなだけ報道すれば良い。
その方がこちらとしても、手間がかからないので楽なのだが。
ぶっちゃけると、全然変わり映えしない情報ばかりで、事案の輪郭も見えないから、飽きてしまったのだ。
解決する前に飽きさせてどうするんだ。
3kg
宮崎・都城市生後5カ月男児餓死事件 発見当時の体重はおよそ3kg
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00271008.html
タイトルの通り、餓死した赤ちゃんの体重が3kgだったというニュースである。
3kgという数字に何ら特別な意味があるわけでもない。異常に少ないということが分かるだけだ。
しかし、餓死したという結果は既に知られているので、体重が少ないことは言われるまでもなく明らかだ。
参考情報として記載する程度ならいざ知らず、これを主題としてニュースを作ろうというその感性が、私には理解できない。
練習として問題を出すくせに、解答をくれない先生や教科書が多すぎて困る
タイトルは記事内容と全く関係ありません。
関係はないけど本質は同じだと思う。
Yahoo のトップページにこんなニュースがピックアップされていた。
官製談合で逮捕の市長・副市長にボーナス支給へ
http://www.yomiuri.co.jp/national/20140602-OYT1T50022.html
以下全文引用。
官製談合事件で逮捕された長崎県南島原市市長の藤原米幸容疑者と同副市長の永門末彦容疑者に夏の期末手当(ボーナス)が支給されることが分かった。
藤原容疑者が140万円、永門容疑者が109万円で、30日に支給される。
市人事課によると、夏のボーナスの支給は、基準日の6月1日に在職していることが条件で、両容疑者ともこの日まで辞職願を提出していない。6月の給与についても、辞職するまで日割り(平日)換算で、市長に約4万1000円、副市長に約3万2000円が支払われるという。
同課は「条例などで支給を差し止める規定がない」としている。
このニュースを見れば
「逮捕されている奴に給与やボーナスが与えられるのはおかしいのではないか。支給を差し止める規定がないなら、それを定める条例を制定すべきではないか」
という意見ないし疑問が自然と出る。
ある問題が重要であれば、それが解決されるのは同じだけ重要なことである。
ゆえに、もし給与を差し止める条例が制定されれば、当然同様の規模で報道されるべきである。
しかし条例を新設するならば、ある程度の時間がかかる。
その間に、(住民には失礼だが)たいして興味もない田舎の、汚職事件のおまけでしかないこのニュースは、ほどんど注目されなくなる。
そして条例が制定されたというニュースは報道されないか、地方紙に小さく出る程度で終わる。
この件もそうなるという根拠はないが、他の報道の様子を見て、あながち間違いとも言い切れないだろう。
ひとたび報道によって問題提起した以上は、どれほど些事であると、その結果を、あるいは経過も含めて報道する責任がある、というのが私の意見だ。
先ほど、条例が制定されたら報道されるべき、と書いたが実はこれは不足であり、もし条例が否決されてもその事実を伝えるべきであるし、いつまで経っても議題にすら挙がらないようであれば、そう報道するべきである。
それが結果である以上、いかなる形態であっても無視してはならない。
もし南島原市が条例を整備したとしてもそれが報道されなければ、何も知らない読者は市に対する不信感のみを持ち続けるだろう。
換言すれば、都合の悪い事実のみを報じられ、都合の良いことは隠蔽されるに等しい。
これでは情報操作と何も変わらない。
ともかく、私もこの記事を書いた以上は、続報をチェックするのを忘れないようにしたい。
忘れないでいられるだろうか…。
9/21 追記
偶然思い出した.そして調べてみた.
現在はまだ条例は改正されていない.
条例の改正にどれだけ時間がかかるのかは分からないし,今審議中なのかどうかも知らないが,とにかく改正はされていない.
山の日の領分
山の日が制定された。
「海の日」あるなら…「山の日」も、16年から
a. http://www.yomiuri.co.jp/politics/20140523-OYT1T50097.html?from=ytop_ylist
>日本山岳会などが「海の日があるなら山の日も」と制定運動を進めてきた。
ということらしいが、果たして山の日は海の日に比肩するものであろうか。
b. http://omocha.hakuoh.jp/ip/uke/syukujitu.html
によると、海の日には
「七月の第三月曜日 海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」
という趣旨がある。
一方山の日は、冒頭の記事 a によると
「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」
ということらしい。
”山に親しむ機会を得て”というのは、日本山岳会が発案者の一人ということからもわかるが、率直に言うと登山のことだ。
しかし、一部の趣味にすぎない登山を祝日の意義に含むのはいかがなものか。
さて、海と山に共通する文言は”恩恵に感謝”である。
これについて考えてみたい。
日本は紛れもなく海洋国家であり、山岳国家でもある。
海幸彦と山幸彦の神話があることからも、共に日本の重要な要素だと考えられていたことは間違いない。
海の幸といえばやはり、塩と魚介類だ。特に岩塩に乏しい日本において、塩の安定供給は重要だ
恩恵という意味では、徒歩や馬に比べて多くの物資を運べる、船という移動手段を使えることも大きい。
一方山の幸というと、木や山菜などの植物、獣である。
食料に加え、道具や家屋の材料となる木材や毛皮を入手できる。なんと衣食住の全てを賄えるのだ。
川や湧水によって、真水も入手しやすい。
こう書くと、山は海に負けていないと言えそうだ。
これはこれで、間違いではないと思う。
しかしこれは昔の話。
現代日本においては、漁業は今でも盛んだが、狩猟はほぼ行われていない。
植物も人工的な栽培が主流となり、直接山から採取することは随分と減っている。
そして肝心の木材さえも、ほとんど輸入に頼っているのが現状だ。
それでも、多種多様な動植物が生きていけるのは、ひとえに山のおかげである。
ところで、海の日、山の日は確かに対であるが、祝日にはもう一つ、これらと比べるべき祝日があることに、お気づきだろうか。
答えは、「みどりの日」である。
冒頭のリンク b によると、みどりの日の意義は
「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」
つまり、木や植物への感謝は、既にみどりの日によって行われているのだ。
さらに言うと、春分の日の意義は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」である。
今やめったに食料とはされず、慈しむべき対象となっている山の動物への感謝は、こちらで十分なのである。
川を山の恩恵の一部と解釈できなくもないが
海のない奈良県では、海の日を「奈良山の日・川の日」としていたり、
岐阜県では、8月8日を「ぎふ山の日」であり、市では7月7日を「川の日」と定めているように、山と川は別物という解釈が既に自治体に出回っている。
また、「登山の日」は10月3日に存在する。(ただのごろ合わせだが)
登山を普及するだけであればそちらで事足りる。
「山の日」を新設してまで祝うようなことは、残っていないようである。