ボージョレ・ヌーヴォーの誤解
一部で流行しているらしい、ボージョレ・ヌーヴォー。
毎年やたらと賛美した評価がなされることで有名だったが、今年は不作ということで、珍しく評価も控えめになった。
ここ数年、ヌーヴォーは実は大したことのないワインだ、という知識が広まっている。
実際のところそれは正解で、熟成の行程が存在していないため、どうしてもワインらしい深みや複雑さに欠けてしまう。
また、収穫を祝うこととは無縁の日本で、ヌーヴォーばかり飲むというのは滑稽でもある。
しかし、「ヌーヴォーは駄目なワインだ」という知識だけが先行して、ヌーヴォーは安くてまずい何の価値もない液体だという誤解がされているように感じる。
ヌーヴォーを否定する人間の内、正しくその理由を説明できる人は少ないだろう。
少し知識を増やした人は「熟成されていないため、ただのブドウジュースであり、ワインではない、だから買う価値はない」と言う。
厳密には違うとはいえ、理屈は大筋では間違っていない。
しかし、買う価値はないとするのは早計だ。
熟成によるコクや深みがないことが、飲料として不適である理由にはならない。
ワインは深みや渋味があり、複雑な味わいであるという傾向が強いが、そのように規定されているわけではなく、それが万人受けするわけでもない。
逆に熟成されたワインにはない、ブドウ本来のみずみずしくフレッシュな味わいをしっかり感じられる。
また、熟成による香りは、ブドウ固有の香りの邪魔になることもある。
ボージョレ・ヌーヴォーに使われるブドウの品種・ガメイは若くても厳しさの少ない品種であるため、熟成されていなくても飲めないような仕上がりにはならない。
何より価格が安い。クオリティが低かろうと、相応の値段であれば文句を言う必要はないはずだ。
ブドウ本来の風味が前面に押し出された安くて飲みやすいワイン、これを一概に悪いということはできないと思うのである。
ワインは比較的とっつきにくい飲み物だと言われる。
しかしヌーヴォーには、ワインの特徴的な面倒臭さが少ない。
ジュース感覚ですっきり飲めて、しかも安いとなれば、ワインのことを良く知らずに流行にのって買うような人には、むしろワインの取っ掛かりとして相応しいのではなかろうか。
余談
http://news.mynavi.jp/articles/2012/11/16/nouveau/index.html
この記事において、ソムリエと名乗る人物が今年のボージョレ・ヌーヴォーの評価を書いている。
”今年のキャッチフレーズは、「心地よく、偉大なフィネスがあり、アロマの複雑さが見事なワイン」”
だそうだ。
「フィネス」とは、良く熟成され、ポテンシャルを感じさせながらも、エレガントで口当たりの良いすばらしいワイン、をいった意味を持つ最上級の讃辞だ。
何がどうあっても、ヌーヴォーの評価には相応しくない。
もしこのような評価がされるのであれば、そのワインはヌーヴォーとしての価値はない。
世の中のヌーヴォーに対する誤解は実に腹立たしいが、市場やメディアがこの例のようなふざけた持ち上げ方をしているようであれば、正しく理解されることは永遠になさそうだ。